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保内の歴史History

保内の植木について

1. 保内の地勢

新潟県は本州北部の日本海に面しており、都市としては世界で有数の積雪量の多い地域です。保内は新潟県の中ほど、標高100m前後の低い山並みの麓に位置し、少なくとも数千年前から人が暮らし、有力者の墓である前方後円墳(およそ1600年前)が発掘されています。

この墳墓の形式は、当時奈良京都周辺にあった王権の勢力範囲にあったことを証明するものですが、無文字時代のことで詳しいことは分かっていません。

17世紀から徳川幕府を頂点に、徳川氏の家臣である大名がそれぞれの国を治める体制が固められ、保内は上保内と下保内に分けられ幾度か領主が入れ替わりました。18世紀初頭に下保内は徳川直轄領となり、代官が徳川家の居城のあった江戸へ赴く際に村人がこれに随行すると、江戸で庭木の手入れや接ぎ木の方法を覚えてきました。村に帰ってこれを広めたのが、保内の植木の始まりといわれています。

この時代の税は米で収められており、日本の稲作は水田で作られるためにわずかな平野部しか持たない保内は貧しく、さらに日本一の長さと流量を持つ信濃川が近くを通っているために平野部は度々水害に悩まされていました。三条の金物産業が水害による被害を補うために発展したように、保内の植木も村の暮らしを助ける産業として18世紀後半には既に近隣に知られるようになっていました。

2. 保内の五葉松

さまざまな庭木を生産してきた中で、保内の名声を最も広く知らしめたのは五葉松です。
日本原産の松科の樹木で、針葉が5本の束になっていることからこう呼ばれています。針葉は他の松科植物と比べると短く、色は青みがかっていますが、土壌によって葉の色が異なるため、白みがかった保内の五葉松は特に「保内の霜降り五葉」と呼ばれて高い評価を受けました。盆栽としても人気の高い樹種ですが、庭に植えれば主木となり、庭全体に深みと気品を及ぼすことができる木として評価されています。

その生産は主に、日本と朝鮮半島で自生する黒松を種から育て、それを台木にして五葉松の枝を接ぎ木して育てられます。山の畑に植えられ、地面に刺した竹棒に枝を縛りつけて独特の形に仕上げます。
三条市は五葉松を「市の樹」に指定し、現在子どもが生まれた市民に記念樹として苗木を配っています。その生産はすべて保内で行われています。

3. 産業の形態

最盛期は220戸程度が稲作などと兼ねて従事し、五葉松に限らずさつきなど様々な庭木、和紙の原料となる楮や箪笥の原料となる桐、カイコの餌となる桑など用材の苗木も生産していました。栽培には標高100m前後の山並みを開拓して斜面を畑とし、その面積はおよそ60ha。その一帯は「松山」「植木山」と呼ばれました。

園芸から始まり、小規模な庭園づくりも行われていたようですが、本格的な日本庭園の造園は1911年に、新潟県で最も古い、万葉の時代からの伝統を持つ弥彦神社の境内造営に4人の職人が参加し、その際に石組みを習得して戻ったのが始まりとされています。

戦後、連合軍の占領下で生活文化も大きく変わり、食糧難が終わって経済成長期に入ると家族形態は大家族から戸建て住宅で親子合わせて数人で暮らすようになり、住宅建設ブームが起きました。日本が経済成長期に入る少し前の1949年に保内駅ができたことで、植木屋の妻である女性たちが竹の籠に苗木を背負って鉄道を使った行商を行うようになります。
戦前は庭造りができる一部の富裕層にのみ知られていた「植木の保内」の名は、経済成長によって住まいと庭を持つことができるようになった多くの人に知られるようになりました。
その後自動車の普及により行商は行われなくなりましたが、1973年から保内で「保内植木まつり」を開催するようになると遠方からも植木ファンが集まるようになったのは、女性たちが行商で「植木の保内」の名を広めたおかげといわれています。